先日のデボーション箇所はルカの福音書14章でした。
ここには、憐れみ深く癒やし主である主の招きと、その主に従う者へのチャレンジが記されています。
1-2節「安息日のこと、・・・・水腫をわずらっている人がいた。」
3節 「イエスは、律法の専門家たち・・・に対して、「・・・安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。」
4節「彼らは黙っていた。」 ・・・
しかし主は、その「水腫をわずらっている人」を「抱いて癒やし、帰され」
ました。
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律法の専門家たちは、ただ黙って答えませんでした。
水腫をわずらっている人を抱いて癒やすなど、決して私達には出来ないことです。
ここには、そうした者をも癒やす、憐れみ深い主のお姿と愛が『これでもか!!!』と現わされています。
この憐れみ深いイエス様の愛を直に見て、知った者達が多くいました。
そしてその後、イエス様はそうした彼らに対して、このように言われました。
24節「・・・招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。」
更に、
26-27節「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
と言われました。
そして最後に、
34-35節「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」
と言われました。
憐れみ深く、抱きしめて癒やしを与えて下さる主の招きと、その主に従う者へのチャレンジがまさに記されていました。
私達はどんなに自分で自分の命を守ろうとしても、主の守りがなければ決して守れません。だからこそ、水腫の者を抱いて癒やされた憐れみ深い主の守りがあるのですから、安心して主に従うことにチャレンジ出来るのです。
本当に、私達が主に従うチャレンジは毎日ありますね!!
しかし実際には、24節でイエス様が言われたように、
「・・・招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。」
と言われてしまうことがあるのかもしれません。
主は憐れみ深いお方、水腫であろうが、どんな姿であろうが、その御胸に抱いて癒やして下さるお方です。
このお方を信頼して、主に従うチャレンジを歩ませていただきたいものです。
そして願わくば、このチャレンジに応答する者が多く起こされるようにと祈っています。
「イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。
彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。」
ルカの福音書14章3~4節
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」マタイの福音書 9章 37〜38節
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